2024.10.9
「寒天マン」来場します!
2022年1月7日
恵那の農山村部の暮らしにある食文化について市内各地の方々から聞き取った『恵那の農家の暮らしと食歳時記』。
前回は上矢作町三作(みつくり)オールドサロンにて、昭和30年から昭和50年代頃の暮らしと毎日の食事、行事ごとの食について伺いました。
【恵那の農家の暮らしと食歳時記1・上矢作町三作地区 三作オールドサロン】
https://tabetoru.com/blog/5119/
今回も上矢作町三作地区にて、『三作みそ手作りの会』として平成10年から平成30年まで女性6人グループが製造販売していた『みつくりみそ』について、当時のメンバーのおひとりである後藤節代さん、現在その工場と製法をそのまま受け継がれ『ふくすけ味噌』として商品化している石川農園の石川右木子さんからお話を伺いました。
恵那市上矢作町三作地区は、南北に流れる山間の川を挟んだ東西18戸ほどからなる集落です。かつては東と西それぞれに共同麹室(地域住民が麹をつくる家屋)があり、それぞれが必要なときに米麹や麦麹をつくっていました。麹の材料となる米や麦も栽培。出来上がった麹と代々受け継がれた固定種の大豆で、その家で使う一年分の味噌や醤油がつくられていました。こういった自給自足に近い暮らしは平成10年ごろまで続けられ、その暮らしの知恵を知る方々は現在でも多くいらっしゃいます。
お話を伺った後藤節代さんは77歳。お隣の串原から三作の農家に嫁がれ、味噌や醤油づくりはもちろん、当地の特産品である蒟蒻や豆腐など何でも原材料から家でつくられていました。串原の生まれ育った家でも味噌づくりはしていましたが、地域の共同麹室はなく、各自が家のこたつなどを利用して麹をつくり味噌や醤油をつくっていたそうです。昭和40年代後半から昭和50年代には岐阜県の生活改善普及員さんと一緒に東濃地域の農村視察、研修会などを開いていた協議会のメンバーでもあり、地域の女性をけん引する存在でもありました。
※生活改善普及員……戦後の農山漁村の女性地位向上と農村民主化を目的に、生活環境、保健衛生、家庭経営など、衣食住のあらゆる分野で地域住民を指導し近代化を図った県の職員。
▲後藤節代さん 三作東地区に残る共同麹室の前にて 現在利用している住民はいない
高度経済成長期になると、農村でも工場などで雇用され現金収入を得る人が増え、それに伴い、食材は“畑でつくるもの”から“買ってくるもの”へと変化していきました。家で働く時間が減り、じっくり時間をかけてつくる味噌や醤油を手作りする家庭も少なくなりました。
平成10年、三作に暮らす後藤さんら6名は、共同麹室で麹づくりから始める伝統の味噌づくりから、地区にあった空き倉庫を利用した工場製の味噌を協働でつくり販売し始めることにしました。味噌の仕込みは冬の
農閑期の作業として働き者の女性たちにぴったりです。
工場での協働味噌づくりには、これまで使っていた道具・製法とは何もかもが違いました。
麹室では「ロジ」と呼ばれる杉でつくられた箱に蒸した米や麦を入れ麹菌をまぶし、炭を焚いた高温の室に3日ほど置いて麹を作ります。美しい花を咲かせたような麹を作るために「ロジ」の扱い方や室内の温度などに気を配り、家族全員が交代で麹の状態を管理する必要がありました。味噌の作り方は家々で違いがあり、米と麦の割合、菌の着け方、麹の出来具合、大豆の品種、塩加減なども代々受け継がれたそれぞれの「手前みそ」でした。
工場で6人が同じ味噌をつくるために、一定の温度が保たれる「発酵器」を利用してつくる麹づくりに切り替えました。発酵器は大量の麹を一度に作ることができ、それほど手間もかかりません。必要な道具を揃えるための初期投資は6人の持ち出しでした。味を決めるにも6人の手前みそを持ち寄って検証し、納得の美味しさを求めるために塩分濃度や夏場の温度を計ったりしながら進めました。その結果、米と麦に同じ麹菌を着けること、米1:麦2の割合で使うこと、大豆は仲間の家で受け継がれていた「地まめ」と呼ばれる大豆を使用することにしました。
このレシピのポイントは他にはない『三作みそ手作りの会』ならではの特徴となりました。
▲地域に配布されたチラシ
▲平成19年の上矢作小学校5年生の食育授業の様子と、平成21年の食育授業を掲載された新聞の切り抜き
三作6人の女性たちがつくる味噌は「手づくり」「豆づくり」「健康づくり」をキャッチフレーズに『みつくりみそ』と名付けられました。販売し始めて3年目には2,400kgの味噌を仕込み、最盛期には3,000kgを仕込んでも間に合わないほどの人気となりました。上矢作町の小中学校の給食にも使われるようになった頃には、小学生が畑を利用して大豆を無農薬、無化学肥料で栽培するところから始める味噌づくり体験の授業に講師として参加するようにもなり、上矢作町の食を育む担い手として地域を支える存在にもなっていました。
農家の主婦らだけで構成された『三作みそ手作りの会』は平成30年まで20年間続けられました。
野生動物による農産物の食害が多くなった上矢作町で大豆からつくる味噌づくりは重労働となり、負担が大きくなっていったのです。
▲平成14年発行の東美濃農業協同組合広報誌「ひがしみの」より
いよいよ工場を閉鎖することになった時、大きなプラスチック桶や器具などが農業用の道具として再利用できないかと考えた会のメンバーは、三作のトマト農家 梅本さんの紹介で、トマトとイチゴを生産する石川農園の石川右木子さんに声をかけることにしました。
石川さんは、もともと発酵に興味がある人でした。発酵の仕組みは農産物の育成にも関係しています。自分たちの畑で大豆を栽培し、それを味噌に加工販売していることにも面白みを感じていました。
石川さんは『三作みそ手作りの会』がつくる味噌を、そのままを受け継ぐことに決めました。
石川さんは、
「日本の大豆の自給率のことなどを考えたりすると、自分たちの畑で大豆を栽培し、そこから味噌をつくることは大切なことだと考えたんです。トマトやイチゴの生産とは違う分野ということも面白いと思いました。道具はまだまだ使えるものばかりで、節代さんたちから味噌づくりのノウハウを教えてもらいながら生産していけるうちに、無農薬栽培の大豆づくりからやりたいと思ったんです」
▲節代さんらの指導のもと、味噌を仕込む石川さんら
石川農園の『ふくすけ味噌』は、『三作みそ手作りの会』そのままの味噌の味がします。三作に暮らす先人の思いや人柄、働きもののお母さんたちの姿さえ浮かんでくるような、懐かしい味わいです。
「節代さんらが麹の出来具合を見極める力や身体能力の高さなど、私たちが及ばないところはたくさんあるんですが、年々、発酵の仕組みが少しずつ分かってきました。これからは時代に合わせた味噌の製造販売などいろいろやってみたいと思ってます。今、私の周りの人たちは味噌汁を飲むのは一週間に一度という人が多いんですが、毎日飲んでほしいと思うんです。そのためには、塩分をお客様の好みのものにするとか熟成させる楽しさが味わえるようなオーダーメイドの味噌なども販売して、味噌文化をつなげていきたい思いでいっぱいです」
三作に残る味噌づくりの技術が、時代の食生活の変化に合わせながらも伝承されていくことを願ってやみません。
【恵那の農業人・石川農園 石川右木子さん】https://tabetoru.com/farmer/ishikawanouen/
【恵那の農家インタビュー・恵那食農ポータルサイトたべとる公式YouTubeチャンネル】https://www.youtube.com/watch?v=cfeWo9nMcgI