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2022年1月10日

【恵那の暮らしと食歳時記3】飯地町の蒟蒻と麹漬け文化①

恵那の農山村部の暮らしにある食文化について市内各地の方々から聞き取った『恵那の農家の暮らしと食歳時記』。

今回は、恵那市飯地町にある『ふるさと民俗資料館』館長の山口鉦一さんにお話しを伺いました。

 

 

 

▲山口鉦一さん

 

 

 

飯地町は恵那市の北西部、木曽川の北岸に位置し、笠置峡の赤い橋のところから分かれる急な坂道をくねくね登りきったところに広がる、標高600メートルの高原の町です。江戸時代、この地域は苗木藩領で美濃国加茂郡としてあり、昭和23年に加茂郡から恵那郡飯地村に移るまでは現在の美濃加茂市太田町や八百津町との交流が多く、昭和29年に近隣町村と合併して恵那市飯地町となりました。

 

 

飯地村役場として建てられ、のちに恵那市役所飯地支所を利用した『ふるさと民俗資料館』は国の登録有形文化財にも指定されています。笠原で製造されたタイルが一面に貼られた美しい外観です。現在は地元住民から収集した古い生活物品、農作業に使われていた千歯や脱穀機、養蚕道具などが展示され、昭和初期の飯地にタイムスリップしたかのようです。
また、飯地町は古くから地歌舞伎がさかんであり、芝居小屋「五毛座」を拠点に地域の子どもたちや保存会による公演が開催されています。人口約600人の小さな町ですが、昔ながらの文化を大切にしつつも大自然の良さをうまく取り入れた人気のキャンプ場や雇用を生む中小企業もあり、若い世代にも心地よく暮らせるコミュニティです。

 

 

山口さんは81歳(令和3年12月現在)。生まれも育ちも飯地で若い頃はお隣の八百津町で会社経営をされていました。家には田んぼや畑あり、いわゆる兼業農家として暮らしていらっしゃいます。そのお人柄から、その場がぱっと明るくなるような楽しい雰囲気をお持ちの方です。

昔から地域のまちづくりにも積極的に参加されており、飯地公民館長を務められた経緯から現在の『ふるさと民俗資料館』の館長を担っていらっしゃいます。また、キャンプ場で使われる薪を作る団体や、小学生と地域住民の交流活動にも中心となって活動されています。

3年前、小学校の先生から「飯地町で昔からあった農産物は何ですか?」と聞かれたことから、小学生たちと一緒に蒟蒻芋を栽培し、蒟蒻に加工する体験授業を指導することになりました。

 

 

 

▲ふるさと民俗資料館・外観

 

 

 

山口さんにとって蒟蒻には、特別な思いがあります。

かつて飯地町の産業といえば蒟蒻芋、たばこの栽培、養蚕業、林業ででした。今でも夏の盆踊りに流れる『飯地音頭』には「飯地なぁ こんにゃく どんどと増えろ 味は日本一 宝いも ヨイヨイ 飯地の ヨイヨイ 飯地の宝いも」とあるように、飯地の蒟蒻芋は粘りが強いことで全国的に名をはせており、値段も高く売れていました。戦時中には「風船爆弾」の風船に使う糊として日本軍に供給されていました。蒟蒻芋は飯地の自然の中で天然に生えていた在来種を畑に移し替えて栽培されていました。栽培は他の農産物と比べて難しいものでしたが戦後も生産は続いていました。

昭和40年頃、山口さんは他の地域から生子(きご:蒟蒻芋の赤ちゃん)を大量に仕入れ、安定的に生産できるよう化学肥料を使用して生産拡大を図りました。蒟蒻芋を蒟蒻に加工する用に育てるためには土に植えてから3年かかります。3年の間に、寒さに弱い蒟蒻芋を土から掘り出して暖房室に一旦保管するための倉庫も建てました。しかし、飯地在来の生子でなかったからか、化学肥料が合わなかった為か、蒟蒻芋は全部、畑の中で腐ってしまったのです。

ちょうどその頃から蒟蒻芋は海外から輸入されるようになり、値段の安さに国産の蒟蒻芋は市場を奪われていきました。

山口さんだけではなく、飯地の蒟蒻芋農家は気力を失くし、生産出荷する農家は途絶えました。

 

 

あれから50年以上経ち、山口さんの蒟蒻芋畑はもうありませんが、日当たりの良い傾斜畑の隅には天然の蒟蒻芋が生えています。そこに育つ天然の蒟蒻芋はもともと、寒い時期に暖房室で保管しなくても3年経てば大きく育ち、蒟蒻に加工することができました。

「飯地の蒟蒻芋と言えば『宝いも』。みんな蒟蒻を芋から手作りしたもんだ。これを現代に伝えなければ」

山口さんは新たな思いで小学生たちと蒟蒻芋を栽培することを始めました。

 

 

「小学校の畑は素直な、ええ畑。先生らの管理もええ。300個植えた蒟蒻芋が秋になってもまんだ葉が枯れずにおってよ、枯れんことにゃ収穫できんし。やっと掘ったら、ええ芋が採れたわ。

その芋で蒟蒻を作る実習をしてね。

子どもんたらも、わぁわぁ言いながらやっとったわ。固めるのにコツがいるでね。昔は正月前となると、おばあさんらが外で薪で湯を沸かいて、たいへん作りょおらした」

 

 

 

 

▲蒟蒻芋の生子(きご)。これを種にして畑に植える。

 

▲左:2年目の蒟蒻芋。右:3年目になると蒟蒻に加工できる程に大きく育つ。

 

▲蒟蒻芋を加工した蒟蒻。ショウガ醤油につけて刺身として食べる。

 

▲飯地のお正月料理「だいこざい」。冬季はお正月以外にも食べる。大根、里芋、人参、豆腐などと一緒に蒟蒻は必ず入る。

 

▲スルメの麹漬け。樽に仕込んである最中の様子。取り出したスルメを火であぶって食べる。こちらも飯地のお正月料理。

 

 

 

「天空のふるさと」と称される飯地には、蒟蒻以外にも飯地ならではの食文化があります。

生魚を食べることがほとんどなかった飯地では、魚といえば運ばれてくる塩カツオや塩サンマ、塩サバなど塩漬けの魚でした。たまに塩の無い生魚が来ると「ぶえんが来た!」「ぶえんを喰ったぞ!」と珍しさに喜んだものです。(ぶえん:無塩)たんぱく源は主に大豆。正月には飼っていたウサギや鶏を食べたといいます。山には今ほど猪や鹿はおらず、ヘボを捕ってきたり、渡り鳥を捕って食べました。現在、渡り鳥は禁猟とされ捕って食べることはできませんが、今でもお正月になれば、塩カツオやスルメを麹に漬け込み食べてられています。

麹に漬け込むと旨味が増し、身がふっくらして柔らかく食べることができます。捕ってきた鳥など長く保管できない食材を保存するには絶好でした。麹は各家で作られていましたが、味噌や醤油を作るだけではなく使われるので、専門に作って販売する麹屋が河合地区(飯地の隣)にあったそうです。

 

 

渡り鳥猟は『鳥屋猟』と言われ、ふるさと民俗資料館ではその痕跡をたどることができます。

昭和20年代までは、渡り鳥で空が暗くなるほどでした。鳥屋猟は広葉樹の葉が落ち始めた10月末から11月まで行われます。渡り鳥の通り道がある山中に網を広げ、北西から飛んでくる朝を待ちます。あらかじめおとりの鳥を用意し、その鳥が美しく鳴く声につられて羽根を休めに来た鳥を狙います。おとりの鳥は一年中飼われていますが、シーズンになると美しい声で鳴かせるよう餌を変えたり、水浴びさせたりしながら工夫して育てられ、一軒で何羽も飼われていました。各自の縄張り場は『鳥屋(とや)』と呼ばれ、鳥屋の近くで休憩する小屋を『鳥屋ぶくろ』と呼び、そこで捕りたての鳥を焼いて客をもてなす人もいたそうです。今でも飯地には「鳥飼い」「小鳥屋(ことや)」や「前の鳥屋」などの地名があり、かつて鳥屋猟が盛んだったことを伺い知ることができます。

 

 

現在、渡り鳥はあまり見かけなくなりました。

飯地の山のほとんどが針葉樹となり、羽根を休める場所がなくなったからともいわれています。また、飛来するルートが変わったからともいわれますが本当のところは分かりません。

 

 

 

 

▲おとり鳥は一年間大切に育てられていた。シーズン前には餌を大根の葉を乾燥させたものや魚粉に変えたりした。(練り餌)

 

▲鳥かご。一軒につき何羽も飼っていた。

 

 

 

現在、飯地町まちづくり特産品部会が製造販売する『スルメの麹漬け』は全国発送され人気を博しています。特製の麹は甘味が強く、漬け込まれたスルメは旨味を増しています。また、町内の飲食店『若福』で手作りされる蒟蒻も同様に販売されています。

 

 

渡り鳥はスルメに代用され、麹漬けの食文化は受け継がれています。

風船爆弾に糊として使われた粘り強い蒟蒻芋は、小学生の実習授業で蒟蒻に加工し、若い世代に美味しい思い出を残しています。

 

 

今に至る飯地の食は、豊かな自然があってこそ存在し、これからも続いていくのでしょう。

 

 

 

飯地町ホームページ【天空のフルサト 岐阜県恵那市飯地町 -自然や人とつながりながら暮らせるまちー】

 

 

▲飯地小学校での蒟蒻づくり

 

▲飯地町まちづくり特産品部会の「するめの麹づけ」

 

▲飯地町まちづくり特産品部会のメンバー

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